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『仏教心理学会との出会い』と若き彫刻家への書簡
昭和女子大学 現代教育研究所
仏教心理学会 評議員
早田 啓子

 私は二十歳の頃、人間存在についてひどく悩んだことがある。その後、この悩み解決の糸口として本学会に入った。その悩みは今も消えてはいない。

 先頃、新潟の大学で美術を教えている若き彫刻家から制作上の生き方を問う書簡を受け取った。それには直接答えず、東洋思想をかじった者としての立場から以下のように答えた。

 ①人間何がそんなにくるしいのだ、②それを和らげるにはどうしたら良いのだ、③人間とは一体何なのだ。

 ①人間存在の苦しさは究極的には仏教でいう「生老病死」の四苦に辿り着く苦しさであり、それを人間の言葉(頭脳)で認識出来る苦しさだ。これが他の生物とは違うところで、環境に適応しなければ消滅する他の生物とは違い、人間は脳で言語を操ることが出来る、その苦しさだ。②それを和らげるためにはどうすれば良いか、そのために宗教や芸術があると考える。インド的多神教世界では、ずっと修行を続けていくことでこの苦をやわらげようとした。「修行=瞑想=思考中断」を続けることで、脳髄を内包している「モノ」としての「人体」からこの「思考」する呪縛から逃れようとする東洋の知恵であった。

 近年、欧米で瞑想やマインドフルネス等が盛んなのは、資本主義のグローバリゼーションが限界に達し、新型コロナが蔓延し、文明の分岐点として新たな世界を模索する為に瞑想が求められているからかも知れない。現に10年以上前に訪れたチベット仏教の聖地レーLehでは、多くの欧米の若者が指導者に付いて山中でチベット仏教の修行をしていた。

 宗教と芸術は兄弟みたいなものだと考えている。以前、インド中央部の山中で旧石器人の岩絵を調査したことがある。岩一面に描かれた絵は宗教行為の跡であり、現代的に言えば芸術作品でもある。彼らは生きていくために絵を描くことを必要とした。描くことで獲物を獲得することが出来ると信じた。彼らにとっては、芸術などは存在しなかった。描く行為は獲物を確保するのと同じことで、彼らはそれを信じた。その意味では宗教である。絵を描くと言うことは旧石器人にとって、生きていくのに必要だった。

 人間とは一体何なのだ。ある意味、人間は地球世界の存在としては、大きく逸脱してしまった出来そこないの存在であるかも知れない。これは人類が二足歩行をし、物事を認識し、言語を使うようになったことに起因している。

 空海が高野山の奥の院で、今でも瞑想をして禅定に入っていると信じられている。あの天才をして死して後までも修行しない限り人間の限界の呪縛から解放されることは無く、空海は生死を突き抜けて瞑想=修行しているのではないかと考える。

 この人間存在の不条理に智慧を巡らしたのはアジア人、中でもインド人で老長けた思想家達で、彼らがアジアに多く輩出したのはアジアの気候風土に起因しているのだ。

 人間、生きている限りこの限界から解放されることはなく、修行するしかないということになる。修行内容は様々だ。畢竟、言葉で思考し認識することの苦痛に栓をして思考を中断するということだ。

 要するに人間のあらゆる文化活動の前提として、人間として存在する以上、そもそも人間存在を自分がどう考えているのか、そのために自分は何をやり続ける必要があるのかをはっきりさせておくことが肝要だ、と書き送った。若き彫刻家は、如何に考えたであろうか。