コロナ禍における言語化の重要性

コロナ禍における言語化の重要性
仏教心理学会 会員

京都文教大学大学院 臨床心理学研究科 博士後期課程
菅原 圭

私は浄土真宗の寺の娘として生まれ育つ中で、臨床心理士に憧れ、心理学を学び始めた。その中で”僧侶として生きるということとはどういうことか?”ということに興味を持ち、研究を進める中で、日本仏教心理学会と出会った。入会から5年が経過し、様々なことを教えていただいたこの学会から、リレーエッセイのバトンをいただき、大変光栄に思っている。今回は、学生の立場から何かお伝えできればと思う。

学生としてコロナ禍を経験し、初めに感じたことは”混乱”だった。大学の心理臨床センターが閉まり、SVにも行くことが出来ず、授業もオンラインとなった。状況が大きく変わったことに加え、その状態がいつまで続くのかという今後の見通しも立たず、ケースはいつ再開できるのか・会えない間に問題が起こっていないか・臨床を学ぶ場としてオンラインはどこまで活用可能で、どこまで学ぶことが出来るのか…など、不安ばかりが込み上げた。その中で、”博士後期課程として何が出来るのか”という問題と直面化することとなった。全員が手探りで方向性を決めていく中で、現場の声である後輩の声をどこまで汲み取り、どこまで教員に伝えられるのか・教員とのギャップは大きくなっていないか…など常にアンテナを張っていたように思う。そんな状況から、少しずつ体制が整い、各々がコロナ禍での学び方に慣れてきた。そして現在では、コロナ禍以降の大学院の在り方しか知らない学生がほとんどとなった。そんな中、私自身が大切であると感じていることは、コロナ禍以前の状態を伝え、それにどんな心理臨床のエッセンスが込められていたのかを言語化することである。このことは、僧侶が弟子に行ってきたことと通ずるのではないかと思う。

仏教は長い長い歴史の中で、数多くの危機や変化を乗り越え、今に伝えられたものだと思っている。この根底には、師から弟子たちに言葉で伝え、授けるという方法が根付いており、イメージの共有がしっかりできていたことが支えになっていたのではないかと思う。そのノウハウが現代の心理臨床家を育てる中でも改めて必要になってきていると強く感じている。”見て学べ”が難しくなったことや、対面でのコミュニケーションが取りづらくなった現代だからこそ、意識して”お互いきちんと言葉にして伝えること””今まで受け継がれてきた流れを語り継ぐこと”などを行う必要がある。また、心理臨床家が行っていることは、元々は僧侶が行っていたことでもあるため、そのノウハウを活かすことに何の違和感もないのではないかと思う。

しかし、心理臨床のエッセンスを言語化することは容易いものではない。そのため、学会のオンライン勉強会などで”人と話す”ことを通して、何とも言語化しにくい部分を言葉にしていくことが鍵となるのではないかと考える。その”言語化する作業の場”を提供し続けていただけると有り難いと感じる。