こんにちは。急に寒くなり一挙に冬が到来したようです。フィリピンの台風被害、原発の放射能漏れ、韓国・中国との外交等、様々な災害や問題の多いこの頃ですが、皆様、お変わりなくお過ごしでしょうか。
さて、本日は日本仏教心理学会第25回関西勉強会の御案内を差し上げます。今回は「浄土教と心の問題」について、原田哲了さんよりご発表いただきます。皆様のご参加をお待ちしております。会員・非会員を問わず、どなたでもご参加になれます。お誘い合わせの上、どうぞお出でください。
記
■期日:2013年12月6日(金)18:00~20:30頃まで(会場には17:30から入れます。)
■会場:龍谷大学大宮キャンパス 東黌(とうこう)102教室 <前回と同じ教室です>
(校門に向かい合う飛び地にある建物・東黌の1階です。守衛所でお尋ねください。)
地図:龍谷大学大宮キャンパス(JR京都駅より徒歩約10分)
HP http://www.ryukoku.ac.jp/omiya.html (地図の⑩の建物です。)
■研究発表・意見交換(18:00~20:30)
「浄土教における心に関わる表現―法界身釈について」
原田 哲了(龍谷大学非常勤講師・日本仏教心理学会会員)
浄土教と人間の心の問題については、実践的アプローチ、教学思想的アプローチの両面があり得るだろうが、いまだ十分とはいいがたいのが現状である。例えば親鸞は『教行信証』「信巻」別序において、「末代の道俗、近世の宗師、自性唯心に沈みて浄土の真証を貶す」と述べ、「自性清浄心」と「唯心思想」による一般仏教の立場を批判する。だが思想内容はともかくとして、「唯識的な」ことと関連する問題が『教行信証』にもある。例えば「行巻」「両重因縁釈」における「業識」という語のもつ性格の問題、そして「信巻」「信一念釈」の後に曇鸞『往生論註』からの引用として出されるいわゆる『観無量寿経』「像観」「法界身」の問題である。特に後者は浄土経典の中で最も「唯識的な」表現内容に近接したものであり、曇鸞、善導、源信といった人物がとりあげる問題である。今回はこの問題をとりあげ浄土教においてどの様に受け取られてきたかをみることにより、「浄土教と心」の問題について考える一視点としたい。
■お問合わせ:藤 能成 (ふじ・よしなり:日本仏教心理学会会員)
E-mail : [email protected]TEL : 龍谷大学075-343-3311㈹
■お願い:参加申込は必要ありませんが、予め参加者数を把握したいと思いますので、ご参加の方はできるだけ前日(12月5日)までに上記アドレス宛て、お名前をお知らせください。