「プラグマティック」のすすめ ~ 仏教心理学は「使え」ますか?

「プラグマティック」のすすめ ~ 仏教心理学は「使え」ますか?

マレーシア国立マラヤ大学 医学部
平原 憲道(ひらはら のりみち)

私は自分が非常にプラグマティックな人間だと思っている。「プラグマティック」を精密に、哲学潮流として定義するには、鶴見俊輔が1870-1874年に出生したと紹介する米国哲学「プラグマティズム」を、パースやジェイムズの思想を基に語る必要があるだろう。因みにジェイムズは、我々「仏教心理学」を学ぶ者にとって極めて縁の深い哲学者/心理学者だが、ここでは深入りしないでおこう。取り敢えず今はその定義を、「論理実証主義的な方法論を通じて、現実社会と乖離しない応用力を持つ成果の出力を旨とする知的営為」とでもしておく。科学者、そして仏教研究者としての私の矜持は、このプラグマティックというラベルである。

私の科学的背景および取得学位は、心理科学、特に認知科学エリアのものだが、所属先はなぜか縁あってずっと医学部である。医科学というのは、数ある科学の中で最もプラグマティックなものの1つなので、私にはおあつらえ向きだ。そこでは、疾患や病状についての構造や機序を研究する基礎研究はむろん重要なのだが、最終的には「応用力」が強く問われる。ごちゃごちゃ小難しい実験研究をしても、患者を救えなければ無用の長物。つまり、「使えなくちゃ意味がない」のである。

認知科学者としては、ずっと「マインドフルネス」に携わってきた。自分ではfMRIを用いる実験研究に直接は関わらないが、最新研究を追い、レビュー論文を書き、講演やメディア出演を行い、多くの人にマインドフルネス瞑想を紹介し、コミュニティを運営して来た。そこで多くの精神医学者やビジネスパーソンとも会ってきたが、彼らにとってマインドフルネスの魅力はやはり、「使えなくちゃ意味がない」という視点に応えてくれることである。「煩悩の上塗り」のような、現世での強いゴール設定を伴うマインドフルネスの実践はどうかと思うが、悩みを抱える人々のウェルビーイング向上に貢献しているのだから、それが強い応用力を持つ一つの仏教潮流であることは否めない。そう、実にプラグマティックなのだ。

この「プラグマティックさ」を強く意識することは、21世紀の学問においては分野にかかわらず必須である。それがその学問への注目や投じられる研究費を左右し、後に続く研究者の数にまで影響するのだから。今や「象牙の塔」の呼称など侮蔑以外の何物でもない。

特に「仏教心理学」を行う我々は、何度も襟を正す必要がある。マインドフルネス・ブームの熱狂を経た世間ではいま、「仏教って意外と役に立つね」という感覚を持つ人が急増している。そこに小難しい仏教哲学を不注意に放り込み、応用力のなさを聞き手の無知に帰す態度は、学問として終わっている。基礎研究や文献研究を蔑ろにしろ、社会トレンドにへつらえ、と言うのではない。研究者として骨太な文献理解や歴史認識に立脚しつつも、現代の「生きる現場」へいかに成果を届けるかを「対機説法」することこそが、仏教心理学に求められると考える。そしてそこに、仏教心理学会の命運もかかっているのだろう。

さて、私がいま住むマレーシアはムスリム率が6割を超えるイスラムの国である。イスラム教にはずっと興味を持ってきた。わが国が誇る顕学井筒俊彦博士の書物は根こそぎ読み、東洋の宗教伝統と大きく異なるその思想体系に興奮しつつも、過去にはムスリムの友人は1人しかおらず、日に5回のアザーン(祈りの時間を告げる大音声)も知らずに来た。私に今回このプラグマティックな探求の機会を準備してくれたのは、如来か菩薩かアッラーか。いま、期せずして手に入ったこのチャンスを逃さぬように、今年は「イスラム世界におけるマインドフルネスの受容」をテーマに研究を画策している。

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